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黒沢明監督の「生きる」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.194


何回見ても志村喬の公園でのブランコと「♪命短し恋せよ乙女」には涙腺がぐちゃぐちゃになる。ガンに冒され余命数カ月に迫った公務員の胸中を黒沢は見事に劇化し感動的な名画を誕生させた。そこでは映画の主題とテーマ音楽「ゴンドラの唄」が絶妙な相乗効果をもたらしている。

しかし、ここからは映画の感想から逸脱するが、よく考えてみると市民課長の生涯最初にして最後の達成が、必ずしも公園の建設でなくとも構わなかったのではないかという気もしてくる。福利厚生が乏しかったあの時代に公園の存在は貴重かつ重要な意義を持っていたのかもしれないが、しかしもっと重要で喫緊の市政の課題が他にあったかもしれないな。よしんばそれが一部の住民の熱望であったとしても。

死にゆく課長にとって死力を尽くして実現した公園は、あの時点で市役所&市民課が市民の総意としてめざすべきゆいいつ絶対の理想ではなくて、課長さんの極私的な野望に突き動かされての独走暴走?であった可能性も排除できないな。

通夜の場面では助役以下の公吏が非人間的で非人情な存在として敵対的に浮き彫りされていたが、これは監督の恣意的な思い入れとセンチメンタリズムが少しくでしゃばりすぎているのではないか、というのが涙をぬぐって立ち上がったわたくしの感想でした。

どこまでも君の欲望に寄生して死んでも離さぬドコモauソフトバンク 蝶人

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ローラント・ベーア指揮スカラ座の「魔笛」を視聴する [音楽]



音楽千夜一夜 第244回

2011年3月といえば大震災の頃だが、ちょうどその頃にミラノで上演されたモーツアルトの遺作オペラの録画を視聴。さすがはスカラ座という清明な音で序曲が始まったので大いに期待しました。

さてどういう大蛇が出てくるのかと楽しみにしていたが、結局造り物は登場せずアニメみたいな映画の初期の頃のようなあめふらしの映像が出てくる。こういうやり方は最後の最後まで変わらず、ウイリアム・ケントリッジという演出家がコンピューターを駆使した最新の3Dとかに熱意を燃やすその程度の下らない奴だと知れる。衣装だって男はみな普通のスーツ、女はカジュアルドレスをぞろぞろきているので、せっかくパパゲーノとモノタノスが出喰わしても驚くことができない。ともかく昔の物を現代に塗り変えればよいと信じ込んでいる阿呆の仕事だ。

歌手もみな2流か3流どころで、ややまともに唄えていたのは夜の女王のただひとり。魔笛というオペラの背骨は彼女のたった2つの超絶アリアで成立しているので、これが壺をはずしていると最悪だが、その点ではまあ良かった。

そんな次第でようやく幕が降りるがまだしつこくCGのお絵描きゴッコをやっている。なんの霊感もないルーチンワークの下らない演奏にラアラアと歓声を上げているスカラ座の観客を見たら、死せるトスカニーニも激怒するだろう。墜ちるところまで落ちればいつか浮かぶ瀬もあるのだろうか。

この録画放送の案内をしている顔がグチャグチャになった作曲家が、最近の研究でモーツアルトの妻コンスタンツエと彼の弟子のジュスマイアーが不倫していたことが判明したと語っていたが、ほんとななあ。

出演:サイミール・ピルグ、アリビナ・シャギムラトワ、ゲニア・キューマイア他 
指揮:ローラント・ベーア 演出ウイリアム・ケントリッジ

アラカシの枯葉に似せて横たわるムラサキシジミに幸いあれ 蝶人


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ジャック・リヴェット監督の「ランジェ侯爵夫人」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.193

ヌーヴェルヴーグの生き残りリヴェットの2007年の最新作をその翌年に37歳の若さで惜しまれつつみまかったギヨーム・ドパルデューが熱演しています。原作はバルザックの短編で、原題は「斧に触れるな」です。

彼が扮する19世紀のナポレオン軍の名将軍で軍務一筋の不器用な男が、妖艶な社交界の花ランジェ侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)の色香に迷ってたちまち恋に落ちる。ところが侯爵夫人は彼女が知らなかった荒鷲のように無骨な男に魅せられながら、その純情をもてあそぶ。ついに男の怒りの斧に触れたのです。

業を煮やした武人は彼女を拉致して強引に愛を迫るのですが、それがかえって逆効果となり酷薄な女の前から姿を消す。すると追えば逃げ、逃げれば追うのたとえどおり、今度は女の方が失った恋の大きさに耐えかねて恥も外聞もかなぐり捨てて男を求める。

命を賭けて無二の愛を求め、それが得られずに侯爵夫人が選んだのは海の彼方の絶海の孤島でした。そして映画は息詰まるような緊迫感を保ちながら悲劇の大団円に突入するのですが、これは見てのお楽しみ。それにして男女の愛の本質をぎりぎりと抉り取るこんな珠玉の名作を夢も希望もない平成ニッポンの私たちに贈ってくれたジャック・リヴェットには感謝の他はありません。


枯葉の中にムラサキシジミとテングチョウが越冬していた枯葉となって 蝶人


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溝口健二監督の「祇園の姉妹」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.192

1936年の製作。かなりの部分のフィルムが失われてしまったが鑑賞に差し支えは無い。京の祇園の芸者として生きる2人の姉妹の物語である。

梅村蓉子が演ずる姉は倒産して無一文になった木綿問屋の主人の面倒を見るという昔ながらの義理人情を大事にする古風な女だが、当時18歳の木暮三千代演ずる妹は正反対のモダンガール。姉の情人を手切れ金で追い出して別の男とくっつけ、自分は呉服屋の若い番頭、ついでその主人を手中に収めてしまう。

万事快調、妹の凄腕の細腕一つで色ボケ親父を完璧にぎゅうじったかに思えたが、それも一瞬のこと。好事魔多しとはよく言ったもので、妹は恨んだ番頭にさんざん痛めつけられ、そのうえ主人の秘密を呉服屋の細君に内報されたために「なんで芸者なんかがこの世にあるんやろ」と恨みながらよよと泣くのが全巻のおわりだが、おのれの悲痛と悲惨をそれまでとは打って変わって社会や世の中のせいにするのは脚本の甘さであり、この映画の唯一の弱さであろう。

されど山田五十鈴の美しさと溌剌とした物言い、彼女を借りて新しい女性の生き方を打ち出そうとした脚本と演出は素晴らしくこの映画に不朽の生命を、そして随所で多用される超ロングワンショットが、この物語を遠くから客観視する視点を付与している。最後から二番目のカットのその息を呑む長回しは、映画史上空前にして絶後であろう。

ああこれあるからこそ、世界の溝口なのだ!


    東大寺より西大寺が好きな人 蝶人

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アンソニー・マン監督の「シマロン」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.191

珍しやグレン・フォードとマリア・シェルをフーチャーし一風変わった西部劇。1931年版を1960年にリメイクしたものである。

開発途上のアメリカ・オクラホマ州などでは「ランズ・ラン」という名の早い者勝ちの土地獲得競争が行われたそうな。一獲千金を夢見る全米の老若男女やアウトローや喰いつめ者が号令一発せいので荒野に飛び出していくのであるが、新婚早々のグレンとマリアもその一員。新聞社を作ってこの地に基盤を築いたが生来の冒険心を自制できないグレンは平穏な生活を求める妻子を顧みず各地を放浪していたが、ようやく帰省して知事に任命されることになる。

しかしそれが先住民の自立を妨げ開発のお先棒担ぎへの加担を意味すると知ったグレンは潔く名誉あるポストを投げ出したが、マリアは怒り狂って夫と絶縁。やがて11年の歳月が流れてマリアは新聞社を大成功に導いたが、その時グレンの最初で最後のラブレターと共に、英国女王からの訃報が届くのだった。

波乱万丈の冒険野郎の生涯と米国の開拓史をシンクロさせて描く壮大なスケールが見もの。とりわけシマロンの時代にさきがけた公民権運動が印象に残る。



  病院に行けば病の人ばかり病ならずとも病みし心地す 蝶人

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ダニエル・ハーディング指揮スカラ座のヴェリズモ・オペラ二曲を視聴する [音楽]



音楽千夜一夜 第243回

2011年1月にミラノスカラ座で上演された「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の衛星放送の録画を鑑賞しました。指揮はどちらもダニエル・ハーディング、演出はマリオ・マルトーネという人です。

このヴェリズモ・オペラの演奏で私の脳裏に焼き付いているのは、同じスカラ座をカラヤンが指揮した映像です。劇伴は同じ名門オーケストラですが指揮者が違えばこうも印象が違うものか。両曲ともカラヤンに比べて早い速度で、あの有名な間奏曲にしてもなんの思い入れもなくあっさりと通り過ぎていきます。

楽譜の意味を深く読むこともなく表層のカッコよさだけを追い求めるこの若者の音楽はわたしのような保守反動の徒にとっては唾棄すべき代物でしたが、伝統あるオケも観衆もブーの人声もなく唯々諾々と従っている姿には驚きを通り越してただただ情けない。死せる作曲家たちやトスカニーニが聴いたら激怒するでしょう。

歌唱陣も凡庸な指揮と似たりよったりの出来栄え。ドミンゴでは聴衆の涙を誘ったレオンカヴァルロの有名なアリア「衣装をつけろ」でしたが、今回のホセ・クーラでは嘘泣きしているのはクーラだけ。こんな下手くそにブラボーと叫んでいるミラノのお客は完璧な阿呆です。マスカーニをまずは無難に唄い上げたリチートラが不慮の事故で夭折したのは残念なことでした。

というわけで総じて評価するべきはマリオ・マルトーネの演出のみ。現代の高速道路下に芝居小屋を設営した意匠は卓抜なものがありましたが、ダニエルよ、お前さんはスカラ座で振るには30年早い。



歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(マスカーニ) & 歌劇「道化師」(レオンカヴァルロ)
指揮:ダニエル・ハーディング  演出:マリオ・マルトーネ 出演ルチアーナ・ディンティーノ、サルヴァトーレ・リチートラ、ホセ・クーラ等。


なぜ脳しょうぐあいの君だけにピアノが弾けるのとても不思議だ 蝶人

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ジーン・ケリー&スタンリー・ドーネン監督の「雨に唄えば」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.190


恋する男が降りしきる雨のなかを歌って踊るシーンが有名なこの映画だが、もっと印象的なのは主人公が美脚の持ち主シド・チャリシーと繰り広げる息を呑むようなダンスメドレーの連続シーンで、広大なスタジオ狭しと繰り広げられる歌とソロと群舞、照明と場面転換の見事さは、ドナルド・オコーナーのダンスの切れ味と相俟ってこのミュージカル映画に不朽の生命力を吹きこんでいる。

当時さしたるキャリアと技量を持ち合わせていたとも思えないジーン・ケリーとスタンリー・ドーネンがここで展開している演出も、見事な出来栄えで見る度に新しい発見がある。それにしてもジーン・ケリーの相手役の大女優リナ・ラモントを演じたキイキイ声のジーン・ヘイゲンはその後どうなったんだろう?


お父さんドのダブルシャープはレだよとピアノを弾きながら教えてくれました 蝶人

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「橋下主義を許すな!」を読んで [読書]



照る日曇る日第487回

大阪市民の絶大な支持を受けて市長に就任した橋下氏の政治手法について内田樹、香山リカ、山口二郎氏などがこもごも批判しています。

私は橋下氏が府と市の経費の重複を無くしようとしていることには反対しませんが、教育に偏屈な政治的イデオロギーを持ちこんだり、旧軍隊的規律と上意下達の中央集権的介入を強行したり、市場競争や経済効率論理を導入して大阪府・市の教育基本条例を改訂しようとするような独裁的で夜郎自大な手法には反対です。

我々がこよなく愛するこの自由な国家ではいつでもどこでも誰でも自由な見解の表明を妨げられず、時の権力者に反対したりげんざいの国歌や国旗に異議を唱えたり起立を強制されても罰せられるはずがなく、気に喰わなければ黙って座っていることも許されますし、それを非国民だと罵る人こそが本来の意味の非国民なのです。

橋下氏がしようとしていることについて内田氏は、宇沢弘文氏の「教育=社会的共通資本論」を引き合いに出し、共同体の存立にかかわる自然環境、社会的インフラ、教育、医療、司法、行政に対する政治の中央集権的介入を強く戒めていますが、これはイデオロギーの左右を超えた常識というべきで、政権が交代する度に学校のカリキュラムや医療システムがころころ変わっては国民はたまったものではありません。

政権が交代しても物事が劇的に改革改善されないために、早くも民主党に幻滅してとっくの昔に政治生命が終焉したアホ馬鹿自民党への回帰を妄想したり橋下氏一派を軸とした新政治勢力に過大な期待を寄せたりするドンキホーテな人たちがいるようですが、民主政治というのは膨大な討議と時間と経費を蕩尽し、果てしない議論と辛気臭い交渉と不条理な妥協と紆余曲折を経ててやっとこさっとことおちつくところに落ち着く誰もが不平と不満を抱かざるを得ない超不完全なシステムだということが戦後60年以上経過してもまだ理解されていないようですね。

これに激怒したり愛想を尽かしておのれの主体的な思考を放棄して、ヒトラーもどきのチンピラに運命の下駄を預けたくなる気持ちも分かりますが、なに2年もすれば化けの皮がはがれるはず。ハシズムなどと慌てず騒がず放置しておけばよいのです。


不満あり無力なりされどわが荷物を橋の下に投棄せず 蝶人


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吉川一義訳プルースト「失われた時を求めて2」を読んで [読書]



照る日曇る日第486回

はじめはどうということのない女(男)だったが、そのうちに妙に気になり、ある日ある時の四囲の自他の状況の偶発的必然性(後から考えた)の相対的因果関係にからめとられる形で、当該の男と女のいずれかが絶対的恋愛関係の磁場に吸着されることは往々にしてあるようだ。

本巻で開陳されるスワンとオデットの人情肉布団もまさにそれ。しかも当初は男性が優位に展開していたはずのインターコースが途中で完全に逆転し、男は女の思
いのままに翻弄トイトイされてゆく。昔風の差別用語を使うなら、誰とでも寝る裏社会の女郎風情に毎月五百万円!をみつぎながら社交界の人気ダントツ男が下賤のライバルに寝取られてコキュに甘んじるのだから世話はない。

 されどこれこそが現世の修羅場をあいわたるしがない渡世人の世は情け西洋人情裏話。何が何として何とやら。親の因果が報いたか。それとも前世の因縁か。天に唾すれど答えなく。地に尋ねてもいらえなく。夕べになるともい寝られず。懊悩転転朝が来て。悩みは深き恋の井戸。あれ聴こゆるはフランクの。ヴィオロンの音ではないかいなあ。テテツレテン。テテツレトン。テテツレテン。テテツレトン。ついに男は阿鼻叫喚、果てなき無限地獄へ堕ちるのじゃあ。はれ堕ちるのじゃあ……

     恋は狂気の沙汰にしてつける薬はないわいなあ 蝶人

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フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎の如く」を見て [映画]



闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.189

久しぶりに見返したがやっぱり素晴らしい作品だ。トリュフォーは映像をスタッカートのように歯切れよく切り刻む。それがシーンごとの意味を切れる寸前に浮かび上がらせ、これを推力にして次のシークエンスへと自然につながるのだ。この自然さは完全に人工的にして計画的な手法であり、ゴダールなど他のヌーベルヴァーグの作家もよく使った。

 この演出に乗ってジュールとジムの物語とカトリーヌの狂熱の恋は猛烈な速度で前進し、戦争で急停止し、また再出発して蝮のように絡み合い、河の上の橋を落下する自動車と共に終わる。

はずだったが、それは普通の映画のやることで、トリュフォーは死んだ二人の棺桶が荼毘に付され、それが業火で焼かれて白い骨となり、骨壺に入れられて冷暗所に安置されるところまできちんと見届ける。この冷静な視線こそトリュフォーだ。

ジュールは2人の骨を混ぜてやろうと望み、カトリーヌは自分の骨を風に撒いて欲しいと願っていたが、この映画では出来なかったことがいまでは出来るようになった。40年間かかって、人類もそれくらいには進歩したといえるだろう。

余談ながら「突然炎の如く」なぞという軽薄で胡散臭い邦題を誰がつけたのか知らないが、今からでも遅くはない。これは原題の通りに「ジュールとジム」に即刻戻すべきだろう。

光明寺に去りし隣の美女が来てナシの種呉れし満月の夜 蝶人

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